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金英寿の「内在している記号」の前後



金聖鎬(Kim, Sung- Ho, 美術評論家)


人生演奏 -内在している無意識からの自己省察

作家・金英寿の最近までの創作活動におけるテーマは次のように多様である。

・共感(Sympathy, 2004)
・作曲 (Being music composition, 2008)
・人生演奏(Life is like playing instrument, 2008)
・ソナタのためのドロ ー イング (drawing for sonata, 2011)
・アダ ー ジョの ソナタ(adagio in sonata, 2014)
・内在している記号 (Inherent Signs, 2017)

彼女は、初期の個展から最近の作品に至るまで人間を中心テーマにすえている。2014年の作家ノート『Adagio in Sonata、 愛で演奏する– ゆっくり –』では、2000年から「人間-無意識-欲望」に焦点を当て、これらをめぐる言説を造形的に表現することを追求し てきたと明かしている。 具体的には、女性性、ヌード、戦争、関係、無意識における内面の島、人生に対する哲学などを、生活から生じる 感性的共感や哀れみの 感情から拾い上げてきた 。

彼女は自らの創作活動を通して「無意識に押し込められている喜怒哀楽の感情」を形として表そうとしている。このような表現は、 無意識の世界にうごめいている潜在的諸要素(喜怒哀楽の感情)が意識世界に表出されることで、自己省察 が可能な状態となる 。 金英寿は2008年から約10年間、これらのテーマと向き合ってきた。彼女は「人生は音楽を演奏することと相通じる」という考えから出発し、 「人生演奏(Life is like playing instrument)」を大きなテーマのひとつにしてきた。2010年の作家ノート『私の絵は演奏をテーマにする』 では次のように述べている。

生きることとは演奏に似た行為である。音楽を奏でるためには、優れた楽器と卓越した演奏技術をもつ演奏者が必要となる。さらに、 人々に感動を与える演奏をするには多くの外的経験と内的動機より構築される。生きる過程で得られた経験的学習は、内在している無意識の世界で動機づけられ、 素晴らしい演奏へとつながっていく。絵を描く作業も同様のプロセスを経る。 私の絵は「描く行為をする瞬間の私」と「無意識のなかの私」が共同で作り出2した結果である。私は音楽を描くのではなく、私自身の内面を「音楽の演奏」 に見立てて描くのである。

上記の金英寿の記述からもみられるように「人生、 演奏、外的経験、内的動機、内在的無意識、絵、描く行為をする瞬間の私、無意識のなかの私」は、 「音楽を描くことではなく私を描くこと」である。彼女は、作品活動におけるテーマを演奏に喩え、「人間主体の生き様への探求や、自己省察 」 を 一連の 過程として捉えている。さらに、究極の自分探しとは、自由の追求であると唱えており、「私にとって絵は自由であり、自由はほかならぬ 人間そのもの、私自身である」という彼女の言葉から その 主張 が窺える 。

以上でみてきたように 金英寿にとって「人生演奏」 シリ ー ズ は、自分自身の実存を模索するための方法であり、彼女の全作品を牽引する 一つのメタ ファ ー としても大きな役割を果たしている。すなわち、「音楽演奏」とは、金英寿の作品世界の根底にあるモ ー ティヴ として の 「欲求と愛」 の成就であり、そのための手段である。彼女がめざす作品世界は「自己愛」を省察 すること であり 、 それを 確認することでもある。

私の絵の根底にあるモーティヴ は 「 欲求と愛」である。なぜなら生きていくことは絶え間ない自己愛であり、それは欲求から始まるからである。 人々の人生は各々の個性で奏でる音楽であり、その音楽にはこの瞬間を生きている証としての感情が滲み出ている。チェロの形態は女性の身体を連想させ、 それを演奏する行為は人間の「欲求と愛」を求める行為と重なる。ならば、彼女の作品に表れる「欲求と愛」をめぐる言説とは、果たして何であろうか。 それを筆者は「無意識に抑圧された潜在的な事物表象の 帰還 」と定義する。具体的な意味については、彼女の最近の作品「内在している記号」 シリ ー ズ から 窺がい 知る ことができる 。

内在している記号 – 非言語の「音の イメージ」と無意識の事物 表象の帰還 – 「内在している記号(Inherent Signs)」シリ ー ズは、 重複する 塗料の流れが 自由に広がる抽象表現主義の土台の上に、 古代象形文字のような黒の線描が祕文 のテクストとして位置づけられた作品である。時折、英文またはハングルのテクストがコラー ジ ュ され 、 孔版畫の方式で 画 面に表われる。また、 作家によって 直接 書かれ、まれに それを 読むことが できる 場合 もある。しかし、 大体は 読解が困難であるか、または読解そのものが意味を持たない。 なぜなら彼女の画面におけるテクストと、可読 性を前提にした テクスト固有の機能を提示するというよりは、まるで非可 読 性の イメージを提示しているからである。

彼女の創作活動は、記号学者ソシュ ー ル (F. D. Saussure)が記号表現(シニフィアンsignifiant)として指したもう一つの用語である 「音のイメ ー ジ (image acoustique)」を連想させる。 「音のイメ ー ジ (image acoustique)」は、パロ ー ル (parole)という音声で提示されているか、痕跡 (trace) というイメージで提示されている記号表現である 。このよう な概念は 、 金英寿の以前の音 楽 演奏を視 覚 化した 作品にみる記号表現と 、 非可 読 性の 「 音のイメ ー ジの連鎖 (chaîne acoustique)」を表した最近の作品を説明するのに相応しい。私たちは、 これらの記号表現が記号内容 (シニフィエ signifi é を持たずに は存在し え ないことを よく 知 っている。 ソシュ ー ル が 「 記号表現と記号内容は 、 用紙の両面のように分離できない」と言っているよ うに、これらは 表裏一体の存在であり、相互互換の 関 係 性 もつ 。

記号表現で 溢れている 金英寿の作品には、一体どこに 記号内容が 描かれている の だろうか。フロイトの視点を借りれば、それは無意識の深層 部分に、 「潜在している記号 (言語化されていない 記号表現と 記号内容 の組み合わ せ )」のままで動いている。フロイト は 、 意識の世界とは言語の世界であ り、 無意 識の世界は記号の世界で も ある と 考えていた 。こ れ に即してみると、 金英寿の絵画には、記号表現と 記号内容 が完全に 一致し 、意識 世界 で言語 として表れることを拒 む。 同時に 、 無意識の 世界 で 「 記号表現と 記号内容 の結合体 」となることを志向している。フロイトが 「 意識の世界は言語構成体 (formation du であり、無意識の世界は事物構成体 (formation de である 」 とみなしたように、 金英寿の絵画に表れた 「非可 読 性 /可 読 の意味がない」 テクスト は、 記号表現と 記号内容 が 一致 する言語 の意識世界ではなく、ただ 記号表現が前面 に表われた記 号 の世界として のみ 存在する。 その テクスト は 、 社 会 における文法化された「ラング( langue )」であるというよりは、 彼女 の無意識から溢れ 出る個別化された「 パロ ー ル ( 」である。フロイトに 則して 考えると、それは意識に構造化された言語 構成体 ではなく、無意識 の世界で揺れ動く 事物 構成体 である。最近の作品テー マである「 内 在している記 号 」は、無意識 の世界 から 生成され た まま で 、言語が 主導 する意識の世界には 出 られ ず、無意識と意識の境界 を 浮遊している 。 彼女の「 内在している記 号 」 と は、 次のように解釈できる 。 まず、それは、『 絵を 「 描く行 為 をする 瞬間の 私」と「無意識の なか の 私」が共同で作り出す結果である( 2010 年、作家ノ ー ト)』 。また、「人間の無意識に潜在す る喜怒哀 楽 は 芸術作品を通じてパトス (pathos)を引き出す2018 年、作家ノ ー ト) 」と し 、意識の現 実 世 界に無意識 の世界 を 呼び入れ ている 。

金英寿は「幼少時代は引越しが多かったせいで友人が少なかった。このせいか自分を優しいペルソナの後ろに自らを閉じ込めながら成長期を過ごした」 としている。このような経験が彼女の無意識のなかで抑圧された本能と原初的欲求を省察させる礎となり、創作活動の源となっている。彼女の絵画は、 フランツ・クライン(Franz Kline)の東洋的な書体抽象と、クリストファー・ウール(Christopher Wool)とメル・ボフナー(Mel Bochner)の落書きのように見える 無意味な意味の連鎖に感銘を得て、影響を受けた。作品では、抽象表現主義的な色彩を背景に、太く黒いテクストでないテクスト、そして独白のように呟 く無意味なテクストが重ねられている。それらは抑圧された本能のように無意識の世界で生成され、無意識と意識の境界を行き来する。

フロイトによると、本能は精神と肉体の間の境界線に存在し、本能自体は意識でも無意識でもない。だとすると、本能はどう把握されるべきなのか。 決して意識の対象にはなれない本能は、ひたすら本能を代表する表象を介してのみ意識の対象となれる。本能は無意識の世界の事物表象(représentation de chose)の みで構成されており、抑圧はこの事物表象が意識の世界の言語表象(représentation de mot)として翻訳されることを禁じている。

金英寿の「内在している記号」とは、これらの言語の抑圧に屈するのではなく、抑圧された無意識の本能から出された事物表象(言語になることを拒否する)の 「音のイメージ」のパロールとしての存在である。彼女の言う通り、線に広がる欲求に向けた意志の記憶と感情の色彩は、パロールの状態で散在する記号を通して、 記号表現と記号内容の境界を無くす道具として作用する。すなわち、画面のテクストでは、もはやラングではなくパロールの記号となり、記号内容を喪失した記号 表現として潜在的な無意識から表れて無意識と意識の境界で浮遊することを表している。

金英寿の創作活動での事物表象は抑圧から言語になろうとする抵抗ではなく、抑圧そのものである。つまり、記号表現、パロールとしての記号が本来の記号のまま で呼び戻されることである。カント(Immanuel Kant)の解釈のように、その表象が偽りの像であり、主観的な占有により染まってしまった水が深淵の標識にすぎない としても、金英寿はフロイト式の抑圧された表象に生気を吹き込み、「本来の姿のまま」の正当な召還をし続けている。

終わりに
作家・金英寿は、人間をテーマに人間実存を模索する超現実的な作業をはじめとし、楽器演奏をテーマに無意識の喜怒哀楽の感情を探求する作業をしてきた。また、 「内在している記号」をテーマに無意識に潜在する欲望を可視化する抽象表現主義の画面と、書体の抽象化が混在する作業を通して継続的な実験と変化を試みてきた。 最近では、後続作品として「クラックシリーズ」に力を注いでおり、その作品における変化からも目を離せない。さらに、今回は触れなかった版画作業を含めると、 彼女が追求している多様な活動内容の幅は、一人の作家が成し遂げてきた作業とは思えないほど壮大で変化に富んでいる。ただ、これらのテーマが無意識、人間、存在、 自分、情念という一貫した話題のなかで展開されてきたことを踏まえると、今後の彼女の作品活動で注目すべきところは、外的変化よりも内的変化の部分である。